雨と鴉とからさわぎ

novel top

「おや、誰かと思えば」
白い石畳は、いわば高級住宅街。雨の落ちるドアを開け、出てきたのは屋敷の主本人だった。
「ずぶ濡れの鴉が、魔術師の家に何の用かね?」
使用人も置かず、一人で気儘に過ごしている者の気安さか、彼は渋い顔一つせず客人を招き入れる。かえって客人の方が苦々しい口元で、どういうわけかこの雨の中、ケープのついたロングコートのみで玄関に立っている。当然、旅行鞄もなしだ。
「・・・暇だったものですから」
淡々と動いた唇は、返事を伝えるだけ伝えてぴたりと閉じた。愛想笑いも知らないような無表情に、屋敷の主が呼吸で笑った。
「君が来た理由について興味をそそられるが・・・ここでお喋りを始めたら、お互い風邪を引く。あー、仮に君が風邪をひかなくとも、屋敷に掃除婦を呼ぶのは御免だ。ひとまず上がりたまえ」
そう言うと、屋敷の主ジャコモ・ファルッシは悠々と階段を上がっていった。遠ざかるマイペースな背中に、客人は「これだから来たくなかった」と溜息を吐いた。

「すまないが、書斎の方に向かってくれ。近頃は仕事が詰まっていて敵わない。片手間で仕事を進める非礼も許したまえ。ところで、暇ならチェスの相手を務めてもらえるかね?或いはボードゲームか、君ならば薬学の話もできるか。とは言えやはり、どちらにせよ片手間になってしまうのだが」
玄関でコート掛けを勝手に拝借した男は、二階のホールに響く声に頭を巡らし、低くよく通る声を返す。
「お気遣いなく。目的を果たしたら、即座に帰りますので」
「ふむ?貴重な遊び相手が来たと思ったのだが、どうやら所見を間違えたか」
“貴重な遊び相手”と認識されていた客人は、書斎の入り口に立ったまま、微動だにしない姿で何やら胃が痛そうな顔をする。
「そのように見られていたというのは、こちらとしても興味深い事態です」
彼が間近に止まった足音へ視線を投げる。すると、そこには酒瓶とワイングラスがぷらぷらと揺れていた。
「であるならば、せめて立ち話くらいはしていってくれないか。さぞ遠くから来たと見えるその客人を、この私がものの数分で帰したとあってはカサノヴァの名折れだと思うが、如何かね?」
“カサノヴァ”。そう名乗ってから彼は、彼より幾分年若い客人の、紺色の瞳を真っ直ぐに見つめた。壮年の目元に刻まれた渋味が、穏やかに黒髪の男を包む。
「であるならば、ヴェネツィアの知人の話をしましょう。彼は、シェラに手紙を出したようです」
グラスを受け取りながら男は冷えた目で、赤い液体が注がれるのを待った。
「ああ、そのことか」
「彼の居所を知っている人間は、そう多くない」
「才気持つ人は身を隠さねばならぬ時も多い。一方で、そのような人間に限って、頻繁なやりとりも必要、故に居所の扱いというのは厄介なものだ。さて、20年物を開けてしまったが、君の舌に適うだろうか」
二つのグラスを満たした瓶を、花瓶の台に置く音が響く。
「遠路遥々、よく来てくれた」
「歓迎に感謝します」
儀礼的な返答とともに、香り立つ液体を口に含んだ男は一気に、グラスの中身を干そうとして噎せこむ。
「・・・何です、この酒。尋常のアルコール度数では無いように思えるのですが、一体どういうつもりで?」
「東の果てに伝わる、民族伝統の酒だそうだ。ウォッカに匹敵する強烈なアルコールの強さが、何とも魅力的じゃないか。しかし驚いたものだ。君にも苦手な物があるとは」
「にやにやしないでいただきたい。まさか西洋の酒瓶に、そぐわない中身が詰まっているとは予想しませんでした。それだけのことですので」
多少落ち着いて来たか、咳払いをした彼はグラス越しに、黙って射殺せそうな視線をひたりと向ける。
「彼に何を吹き込みました」
「これは参った。まるで神が人を、天使が悪魔を脅すがごときフレーズも、君に言われると斯くもしっくり来るものか」
「シェラが、そちらでの巡業に出ているのは知っています。あの手紙は、貴方が」
「そうだ。私が彼に、巡業の手筈を整えるために書簡を送った・・・のだが、何か問題が起きたようだね」
「ええ、なんだかんだで留守を任されました。ついてくるなとも言われました」
「なるほど、なるほど!君は手紙を見せてもらえなかったのか。隠し事に外野がぶーたれ、そっぽをむいて、そして恋の鞘当てにすっ飛んで来た。いやはや面白い事態だ、ここまで来たのだ、仔細語ってくれるだろう?」
「他に手が無いと仰るなら、洗いざらいブチまいてやりますが」
苛々とグラスを持ち上げる仕草に、宥めるように片手が上がる。愉しげな口元が
「いいや!それには及ばない。今日の君は見ているだけで飽きないからね、私から話そう。恨みを買って、はらわたをブチまけられるのは堪らない。で、手紙の内容を知りたいのかな?手紙の一言一句を?或いは、真に知りたいのは手紙の深意だろうか」
「・・・・・・全てお見通し、という訳ですか。話好き、面倒な人間と、どなたかに言われた事は?」
「レディに言われるなら本望。策士相手も、まぁ悪くない。で、彼が君に向けた行動は何のためだったか、解説をご所望かな?」
「わかっているなら、話の続きを」
「焦るな、ゼフォン。彼に拒絶されたのが余程堪えている、かといって独り身は耐えがたい。それで彼のコトを想うあまりにストーカーとは、紳士を辞めて犯罪者になる気かね」
「カサノヴァ」
「やれやれ。まず手紙の表層を語ろう、話の基盤を。用件は一つ、指定の迂回路を通って来るよう、私から彼に提案をしただけだ」
“迂回路”と呟き、ゼフォンは怪訝な目を向ける。軍人めいた冷徹に、カサノヴァはたじろぎもせず「然様」と応える。
「何故です」
「何故。彼にとって、避けるべき出来事があるとタロットが示したからだが?」
「冗談を。まさかあなたが、理無き児戯で急な変更を決めるわけがないでしょう」
「察しが鋭い相手との会話は楽しい。あの村からヴェネツィアへの道に、黒死病が出てね。迷信深い者たちが魔女狩りをし始めてしまったのだよ」
「それで、別の道を?」
「了解可能かね?」
「シェラの安全を考えての策ですか。事前に手を打って下さるのは歓迎ですが、私が一緒に行けば、多少血に迷った人間風情の罠を、問題と捉える必要は無かったでしょう」
「確かに、私が心配したのは彼の安全と健康だが。彼には別の懸念があったのではないかね?」
「私の強さについては、シェラも承知しているはず。同行を拒む理由にしても、皆目無いのですが」
ああ面倒くさい、と言いたげにジャコモは目を逸らす。
「君の自信に源泉があるとしたら、ナイル川も慄く水量と察するよ。然らばとくと聞きたまえ、民草とは一度迷信に憑かれると厄介なのだ。美しく、変わり者、強い力を持ち、多少時代の流れにマッチしない言動、要するに君のような変人は、血祭りに上げる理由をばっちり備えた悪魔なのだ。君のいでたちは、良くも悪くも目立ち過ぎる。田舎では田舎者に合わせた振る舞いをしたまえ、ヴェネツィアに摩訶不思議なカンツォーネが流行ってしまうよ」
「一概に否定出来ないのが残念です」
事実、堕天使なので悪魔という表現は大当たりである。
その首肯をどう受け取ったのか、教鞭を揮う方はおざなりに頷いた。
「これだから君についてくるなと言ったのだ。可哀想に、シェラは村を発つ時から見張りがつく可能性を考えていたか。どこぞの馬鹿が追いかけて来ぬよう涙を呑んだ一芝居を、こんなやり方で返されようとは。致し方あるまい、暫しこちらの別宅で心の傷を癒してゆくようシェラに勧めておくか」
「こんな大都会で、彼を狙う人間がどれだけ居るか知れない」
「我が目と手が届く範囲に、彼の憂いは許さない。少なくとも、そのための努力をするのが愛しい者に対する、最大限の敬意だと考えているよ」
「同じ言葉を、あなたよりずっと昔から抱えていますので」
暗くしたたる雫を、前髪ごとかき上げてゼフォンは告げた。誰にも渡すつもりは無いと、ねめつけた瞳で静かに威圧する。対するジャコモは、やる気なく両手を掲げてみせた。
「到底若造の言葉とは思えぬ」
「ではお聞きしますが、彼の危機を知りながら、ここで安穏としているのは?理由をお聞かせ願いたい」
「銃の扱いがとびきり上手い御嬢さんを、何人か護衛につけている。頭脳、器量、作法、戦闘、全てにおいて貴族に勝るとも劣らぬ」
「劇場から出る際の手引きは?」
「踊り子さんたちが笑顔で引き受けてくれたのでね。終わったら娘衣装のまま、こちらまで送って下さるそうだ。他に質問は?」
「いえ、彼の安全が保障されれば、」
「それでは、シェラの巡業に関しては、今後私に委ねたまえ。馬鹿でかい羽音と共に乗り込んでくる愚か者より、彼を上手く隠しておける」
「は?」
鮮やかな切り返しは、まるで腕利きの審問官とひよっこの神学生だった。燭台の炎が、風もないのにぶわりと膨らむのを、ジャコモは確信の目で捉えて微笑んだ。
「彼を守るため、普通の人間の営みを学ぶ必要があるのではないかね?」
「さて何のことやら。私が人間で無いとでも?」
片眉上げて捻くれた返事に、瞳はじっと彼を見た。
「仮に、君がそう感じる、ならば精々魔性に気を付けることだ。別の可能性を追求するのも、私にとっては非常に興味をそそられるが、今は止そう。ところで君は、かの天使の声を持つ神父の所在をご存知かな?」
問いかけられて、ゼフォンは何かに気付いたふうに左の壁を凝視した。まるで、その向こうに何かを視ているような挙動も、商人であり、劇作家であり、魔術に傾倒する男にとっては微笑みのネタらしい。
「上機嫌の御様子ですが、少々長居が過ぎました」
足早に階下へ降りる若者に、屋敷の主は口笛を一つ。からかう調子に、コートを引き取る手が止まった。
「ふむ。帰りにこの住所へ寄っていくといい、お薦めの宿だ」
口上を添え、黒い縁取りのあるポケットから、走り書きのメモが取り出された。流麗な文字の裏は、使い古した巷の音楽が採譜され、修正され、落書きに変わっている。一目見るなり、若者は否と言った。
「娼館でしたら遠慮致します」
「レディへの教育が行き届いている、無論、麗しい青年に対してもだ。いかに便利な翼を持とうと、雨と雷の中を行くのは骨折りだろう?」
近づく馬車音に苛立って、ゼフォンは冷気のような息を吐く。
「私の客には必ず泊まっていくよう手配しているのだ。必要な買い物の通り雨と大差無い」
シェラにも同じ用意をするならばと、溜息の主は渋々紙片を受け取った。見届けてカサノヴァは、深く頷く。
「くれぐれも、窓から訪れるなんて失礼は謹んでくれよ。娼館の花たちに捕まりたければ、止めはしないが勧めもしない・・・ああ、次の客が来たようだ。中庭の出窓を使いたまえ、二階から出れば鉢合わせずに済む」
さっさと行けと手を振る洒落者に、ゼフォンは短く感謝を告げ、二階へ駆けた。

やがて開いたドアに、待っていた男は両手を広げ、歓迎の意を示す。
馬車に手を振り入ってきた人間は、雨に追われるまま彼の腕の中へ飛び込んだ。すみませんこんな恰好で、と詫び、飛び退く小柄な肩が、ふと足元を見て動きを止める。
「どなたか、お客様が?」
「そう、せっかちな客を迎えていたのだ。神に愛された才能が来ると言ったら、慌てて逃げ帰ってしまった。さて、すぐにでも公演の様子を聞きたいところだが、すまない私は仕事の続きがあってね、後程改めて伺いたい。そこで今日の宿だが、」

fin

novel top

Copyright(c) vois99 all rights reserved.