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「リリー、わざわざ見送りにきてくれなくてもいいんですよ」
「だって神父様」
ゼフォンが旅荷物を二つ、迎えの馬車に放り込む。今回はそんなに遠いところに呼ばれたわけではありませんから、と最小限の物しか入っていない古い鞄を示す。
「それでは、行きましょうか」
「行ってらっしゃい。いちゃこらしてたら後でぶちのめすからね」
「今の一言、そっくりそのまま返しましょうかね」
「は?」
ゼフォンが意味深に鼻で笑ってリリーの横の人を見る。
リリーがつられて隣を見る。何事?
横の人は無言でガタガタと震えながら、引きつった顔を左右に振った。
「ま、後のコトは頼みましたよ」
ふらりと片手を出したまま走り出す馬車に
「ちょ、おいこら、逃げるなろくでなしー!」
スカートをたくし上げ、走ってついてきそうな剣幕の娘が叫ぶ。
怒られた当人が全く意に介さないのが可哀想になってきた。
招かれた小都市の教会は、古いが、良く音の響くつくりになっていた。
人間のそれを超えさせられたカストラートの歌に陶酔する信徒たちと、あっけにとられて式次第を忘れ取り乱す神父、
粉々になったプライドをかき集めて必死に歌うコーラス、総てを従えてイシュリエルは歌っていた。
その日、さして高くもない壇上から天なる声を降らす一人の人間に、街一つ沸きかえった事は言うまでもない。
「いやぁ、こんな辺鄙な教会まで来てくださったというのに、さしたるもてなしも出来ないとは、まったくもって申し訳ない」
「お礼を言わなくてはいけないのはこちらのほうです。多額の寄付をしてくださった上に泊めていただけるなんて」
恐縮です、と天使の儚さを思わせる微笑みを向けて、偽りなく本心から感謝の言葉を述べるイシュリエルの純粋さに、贅を凝らした食卓のあちらがわでお偉方の化けの皮がはがれていく。
人間2人は、下っ端の悪魔より余程嫌な気配を纏っているのが、ゼフォンの目にははっきりと分かる。まったく、こんなものに笑いかける相方の気が知れない。
狡賢く濁った目つきが何を示すか、知らぬ彼ではないというのに。
何故あなたは、危険に身を晒してまでこんなところへ来るのでしょうね。
これは人間界で言うところの策略なのでしょうか、私に嫌がらせでもしているつもりですかと問いたくなる。
普段孤児院で出してやっている食事など一皿分にも満たないほど豪奢な夕食を食べる、その合間に交わされる会話の声にさえ人間は酔う。それともその容姿に、であろうか。さっきから相好を崩しっぱなしの年配司教二人を一瞥して、ゼフォンはうっかり力加減を誤ってグラスを素手で割りそうになった。
「こういうのを、腑抜けというんでしょうね」
「何か?」
メイドが運んできた、マイセンの陶器に上品に盛られた菓子に目が留まる。
白い外見からは味の判別もつかないけれど、
「これは・・・」
「アイスクリームですね!」
よほど好きな食べものらしく、いっそうきらきらと輝く瞳が若い容貌に幼子のような透明度をそえる。
「おや、ご存知で」
揶揄する口調で返せば、滅多に見られない幸せそうな笑みを浮かべてスプーンを手にした。
「イタリアへ行った時に、少しだけいただいたんです」
師匠と一緒に行ったんですよ。と呟いて、シェラは目の前の氷菓よりも儚げに笑った。
思わずため息をついてしまった。
ゼフォンには口にせずとも空気をつたう微細な害意がわかる。悪意為す悪魔としての感覚でなければ察知することも難しいであろうそれを、いくら神に愛されているとはいえ一介の人間がわかるはずもないか。案の定、甘い菓子に練りこまれた罠のことなど、シェラは全く気づいていなかった。
これだから、あなたを無防備に害虫の前にさらす事などもっての他だと言うのですよ。
それともまさか、私がああいった輩から守ってくれるとでも
・・・期待しているはずがありませんね。
彼は、助け出した私に感謝はしたけれど、
"あの頃"の記憶も、約束も、
全て失っていたのだから。
・・・それに、今だって貴方を、
「ゼフォン?」
不思議そうに向けられたまなざしを受け流して、
今まさに口に運ぼうとしていた淡い氷菓をスプーンごと取り上げてしまう。
「なっ、何するんですか」
食べてしまえば、やはり睡眠薬の味が喉を焼いた。
成る程、ね。
神の恩寵を無駄に受ける彼の前にたいていの悪事は失敗するし、ひとたびカストラートの桁違いな大音量を放てば近距離にいる人間の鼓膜など簡単に破れる。悪魔の力など不必要なほどに、イシュリエルは強い。
ただ、彼は非常ににぶちんな点は否めない事も確かで。
「そろそろ部屋に戻りましょうか」
「でも、まだ」
困ったようにこちらを向いているのはシェラだけではなかった。
机の向こうで、人間が二人、予想もしなかった事態におろおろとしている。それもそのはずだ。
シェラに盛るはずだった睡眠薬を飲んで、それでも一向に倒れる気配が無いのだから。
「・・・久しぶりに飲んだせいで酔ったようです」
内心では(盛大に怯えればいいんですよ、下衆が)と不穏な事を呟きながらわざとらしくゆらりと立ち上がって見せれば、人間達も釣られて立ち上がる。シェラまでもが心配そうに手を差し出すのが見えて、その時だけは少し得した気分になった。
「お、おお。それは大変だ、今すぐ」
ゼフォンだけを部屋に向かわせるよう召使を呼ぶ司祭の声に、シェラの表情が一瞬フリーズした。
ゼフォンは普段シェラとリリーの徹底的節約大作戦によって酒に手を出したりすることは滅多にない。飲むとしてもゼフォンの家で、たしなむ程度だ。
だが、もしかしたらこの悪魔、下戸かもしれない。あ、だから普段あんまり飲まないのかも。
だとすると、
酔った下戸悪魔が野放し・・・それは、まずい。非常に、まずい。
簡潔に食後の祈りを済ませ、感謝の言葉を述べると急いでゼフォンと召使いの間に割って入る。
「司教様、この人酔うとすっごく荒れるんで、僕が連れて行きますね」
「しかしまだ晩餐が、」
「そうです。貴方だけでも戻られては」
なおも言い募る司教達が見たのは、少々必死なかんじの天使の笑みと、
その後ろで全て見透かしたように笑う、堕天使の笑みだった。
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