-melting-
片田舎の教会の、その横の小さな孤児院の部屋で、もぞもぞと子供が寝返りを打つ。そのうちの一人が、うーと小さく唸って寝言を呟く。
「・・・しんぷさま、ひめい、だいじょ・・・ぶ・・・」
ほっぺたに貼りついた紅い髪に眉をしかめ、それでも少女は眠りの中へ落ちていった。
そこから少し離れた小さな家。
「はーなーしーてっ!一人で歩けますいいから放して馬鹿っ!」
少女が気にかけていた神父様は、いわゆる姫抱っこをされていた。
「相変わらず軽いですね」
身体を包むシーツを跳ねあげ獲物がじたばた暴れるのも気にかけず、持っていく食料を増やしましょうとぼやく男は淡々と歩き、
「放しなさ」
「よいしょっ、と」
子供でも扱うかのように淡々と神父を放り投げる。天井すれすれまで。
投げられた方は、思わず全力で悲鳴を上げた。結構な音量があった。
もちろん、落ちてきた身体はしっかりと抱き留められたのだが、それでもいきなり投げられればびっくりする。
シェラも、例外なく、びっくりした。
そうやってぴたりと大人しくなった身体を抱え直して、堕天使は笑顔で言ったものだ。
「危ないですから、ね?」
「・・・・・・ごめんなさい」
もはや、何が何だかわからない。
かろうじて、といった感じで返事をしたシェラに正しい姫だっこのされかたを実技指導してから、ゼフォンは暗い隣室へと移る。
暗がりに消える足取りが随分と楽しそうだと気づける人は、残念ながらここにいなかった。
「少し待って」
足を踏み入れたところにシェラを下ろして、天井近くにくくりつけたランプを手に取る。呪文の一つも唱えず瞬時に灯りをともせば、ゆらめく光がそこかしこできらきらと反射した。
その光景に、シェラは言葉もなく目をまたたかせる。
正方形のタイルが床にぴったりと敷かれ、厚手のバスマットの傍らに陶製のバスタブが鎮座している。窓際にしつらえた棚には昼間見たオイルの瓶、身体を拭くための布の束、お手製の石鹸が並ぶ。それから、なぜかキャンドルの載ったガラス皿もある。
お風呂だ。
「これ・・・いったい・・・?」
「まだ驚くのは早いですよ」
もう充分にびっくりしているのだが、腕まくりしてバスタブに近づく堕天使に気を取られた。
向かう先は、並々と水を湛えたバスタブ。
今はまだ濡れていないタイルを踏んで移動する間、ゼフォンは静かに手のひらを見つめていた。追いかけて隣に立つと、彼は優しい目をしてちらと笑った。
その表情に、どくんと強く胸が鳴る。
いま、何が起きたんだろう?
「いきますよ」
一瞬の感情をつかむ間もなく、炎の軌跡が水中で踊る。
ゼフォンが操るのは地獄の火。水の中でも熱を失わない光の塊に、冷たい水が徐々に温かくなる。
「わ・・・」
オレンジの明るさが泡に照り映えて、まるでバスタブの中に小さな太陽があるみたいだった。
ゼフォンはしばらくそうして手に炎を乗せた後、小さく息をついて手を引き上げた。眉間にしわを刻んで感想を述べる。
「少しやりすぎた、かもしれませんね」
熱い鍋蓋に触れてしまった時の仕草で、地獄のひとはパタパタと指先の熱を逃す。
火傷をした痕はない。けれど、熱かったに決っている。
だって、いつも触れる彼の手は人間の温かさではなくて。
「あの、大丈夫ですか?」
「何がです?」
気づいた時には声をかけていた。
もし違ったらどうするとか、そんな事考えてもいなかったのに。
慌てて言葉を探して口にする。
「その・・・手に、火傷とか、していませんか?」
彼にしてはめずらしい、きょとん、とした顔のあと、予想外の話題が出たと言わんばかりに苦笑する。
「面白い事を言い出しますね。平気どころか、炎を小さくするのに気を使った程なんですよ」
ほら、と差し出された手は、先程自分を抱えていた温度と変わらない低温。
・・・口調といい馬鹿にするような態度といい、心配して損した。
ゼフォンが首をかしげる。
「おや?頬が赤いようですが熱でも」
「全く!平熱ですッ!むしろ低いぐらいです!」
「では、お湯が冷めないうちにお入りなさい」
それから、と言葉をつないで、今度は悪戯な瞳で笑う。
「使い方を間違えるといけませんから、ここで見ていますね」
結局、ゼフォンは衝立の向こうで本をめくっていた。
黒髪は重たげに水を吸って、ページを濡らさないよう無造作に耳にかけられている。
側で見ていると言われた瞬間、シェラが両手いっぱいのお湯をくれてやったのだ。
これでゼフォンもずぶ濡れだ。
理解できないといった顔で水鉄砲くらった堕天使を見てちょっとスカッとした。
入ってすぐは分からなかったけれど、闇に目が慣れてくると、シンプルながら調和のとれた装飾が見えてきた。広々と足をのばして入れるバスは、どこから運んできたかカラフルな花が描かれている。
妙なところで凝り性な堕天使のこと、これだけの物を作るのにどれだけ時間をかけたんだろう。しかもたぶん、自分のためじゃなくて、入浴が必要なシェラのために。(正確にはシェラの身体、魂の器と彼が言うモノのためなんだけど)
身体を洗い終わり、湯につかって心地良くぼんやりしてきた神父は、伸ばしていた足を丸め湯の中にまどろむ。
頭を占めるのは、得体のしれない困惑。
どうして、こんなことしてくれるんだろう。
昼間、キッチンで口論になった後のこと。
シェラは一人で教会にしつらえた懺悔室に向かった。
埃舞う光の束に、ぼんやりと思い巡らせた夕方。
咄嗟に理解できなかった言葉、耳に刺さった声が痛くて。
ゼフォンには散々酷い事を言われた。彼は僕のまだ癒えきらない傷口を開いて、僕の全てを壊そうとした。
それでも。
火をつけたのはゼフォンじゃなくて、彼の好意を疑った僕だというコト。
落ち着いて考えれば、自分にも非はある。
“彼”ならそんなことしなかったかな。
天使の“彼”には、見返りも裏切りも関係なさそう。
でも僕は、僕であることを譲るわけにはいかなくて。
まぁ、多少口が悪かったのは認めるけれど。
それでも、人間で完璧じゃなくて。天使じゃないし聖人でもなくて。
ぼんやりと繰り言が流れていく。
結局たどり着いたのは、事柄だけの答え。
ゼフォンはこの教会の支援者で、
僕を“あの場所”から救ってくれた恩人。
それ以上の何かなんて、考えられない。
子供たちのために、償わなきゃ。
怖いけど。
って、考えて、覚悟して来た。
なのに、今僕はお風呂に入っている。
しかも結構リラックスして、楽しんでいる。
なんだか、上手く逃げられた気がするのだけど。
どうして、こんなことしてくれるのかな。
策略?たくらみ?
それも、散々喧嘩した後で?
「あの・・・ゼフォン?」
声が反響して籠った音になる。
独特の余韻を待って、返事が来た。
「気持ち良いでしょう?」
「・・・気持ち良いです」
頬をなでた湯気に、思わず本音がこぼれる。
「じゃなくて。お風呂に入るなら、はじめからそう言ってくれればいいのに」
ああまた話が逸れていく。
「ほほう?」
「それをどうしてあなたってひとは」
勝手に脱がしたり思わせぶりな事をしたり、って何も期待なんかしないですけど。あと、放り投げたり、ド派手なパフォーマンスしたり。
「無理に起こして機嫌を損ねるのも嫌でしたから」
優しげな声に、また心臓が跳ねた。
口調は捻くれたまま。でもこれは確かに、シェラには見せない“彼”のための、優しい笑み。それが衝立の向こうに一瞬ちらりと見えた気がして、呆れることもできなくて口を閉じた。自分に向けられたんじゃないのに、頬が熱いような、くすぐったいような心地になる。
そのうち湯が揺れる音が静かになって、居心地の悪さに水面を揺らしてみる。
静寂を狙ったのか、そうでもないのか、のんびりしたテンポが不意を突く。
「気は、済みましたか?」
「・・・?」
「ここへ来た時、償いがしたいと言った」
相変わらず優しげな口調が、平然とそれを口にする。
“償い”。そう。
そのために来た。
「まだ、なんでしょう?早く、終わらせてください」
平静を装っても、無意識に口調が硬くなる。
さもおかしそうにくすりと笑った後に、ゼフォンは
「今まさに、償いの最中でしょう?」
「は?」
一体どういうコトなのか。
彼はたとえば、僕が湯船に使浸かった途端に水を熱湯にしてしまうとか、そういう悪戯だって簡単にできる。そうなったらスープどころか地獄の大釜だ。まさかそんな事本気でしたがってると思えないけど・・・でもゼフォンだし。魂は煮出せませんからね!って言った方がいいんだろうか。
シェラがあっけにとられていると、ゼフォンは衝立の端から腕を伸ばして、バスタブをつついた。
「お風呂に入ること。それでいいでしょう?」
「・・・なん、ですかそれ」
「人間は雨に濡れたままだと風邪をひいて高熱を出すと言いますからね。そのまま肺炎でも起こされてはたまらない。ですから」
「ゼフォン、つまりそれって、」
耳がおかしくなったかと思った。
だって非常識なゼフォンが心配してるのは“魂が風邪をひくこと”じゃなくて、
僕の、身体を心配してくれてるってこと?
まさかそんな、
「ええ。つまり、風邪をひいて免疫力の低下した身体で肺炎にかかり、高熱を出して寝込んだその時万が一にも、うっかり記憶喪失になろうものなら大変ですからね!これ以上忘れられては困ります」
・・・ああ、やっぱり。
思考回路の全ッ然違う頭してるから。
バスタブの中で、期待するだけ損した、と盛大なため息。
いくら神様がお創りになられたからって頭の回転が良すぎるのも困りものだ。
でも。
なんかこう、時々、
どうしようもなくズレてる。
彼の頭の使い方は、まず間違いなく神に背いているんだと思う。
一月ほど前だったか。新しく越してきた一家のお嬢さんが、ゼフォンを見染めて、いや、彼に魅入られてしまって。「容姿も体つきも上玉、紳士的、料理洗濯までできるんでしょ!?これほどの良物件滅多に無いわ!」ってアタックしに行った。
で、結局。
幸せそうに玉砕して、笑顔であいさつして帰っていった。
ほんと、どーゆー断り方したら、ああなるんだろう。
人畜無害な空気をまとっているゼフォンに、大抵のお嬢さんは何の警戒もせず近寄ってきてはころりと騙されてしまう。
時々、ゼフォンを怒ったり殴ったりできるのは自分とリリーさんくらいじゃないかと思うことさえある。
結局どんな嘘で引っかけたのかリリーさんが問い詰めたら、2時間かけて綿密なストーリーを騙り出す始末で。オチまで聞き出せなかったと、ものすごく悔しがっていた。
(ああ、でも・・・)
規則的にページをめくる音に耳をすませ、大人げない大人がのぞいてないのを確認して、ぷくぷくと息を吐いて口元を沈める。
堕天使謹製のバスソルトが入ったお湯は少しだけしょっぱくて。
(僕なんて、そのズレた堕天使に“弄ばれて”るんだっけ)
ぱしゃん。ずずずずず。
「おや?大丈夫ですか?」
溺れていないかと顔をのぞかせた堕天使が見たのは、
鼻から上と膝小僧で睨んでくる、のぼせた顔だった。
next
page top↑
Copyright(c) vois99 all rights reserved.