-fire up-
「ああほら、だから見ていると言ったでしょうに」
熱いお湯にのぼせた身体を引き上げようと、ゼフォンはためらいなく腕を差し出す。
「何、してるんですか」
「しっかりつかまって下さいね」
盛大にゼフォンの服を濡らして、シェラは湯船からすくいあげられ、一糸まとわぬ身体で抱きとめられた。その瞬間、
「・・・・・・ん、っ」
腰のあたりにちり、、と切ない熱を感じて、思わず漏れた小さな声が浴室に響く。
(どうしたんだろう、いつもならこんな事じゃ何もならないのに。温かいからかな)
ぼんやりと靄のかかった頭で考えていると、次の指示が来た。
「ゆっくりでいいですから、足をこちらへ下ろして」
せめて触れないようにと身をよじれば、途端にバランスが崩れる。
そっと腰に手が添えられるのがわかった。
「離れると危ないですよ」
「く、くっついてる方が危ないでしょう!?」
湯あたりのせいで赤い顔を背け、くらくらと目眩を感じながらゼフォンを押しのけ・・・たはずの手が壁にぶつかった。
「大丈夫ですから、しっかり掴まっていらっしゃい」
「平気です、一人で出来ま・・・ふゎ」
へたり。
虚勢を張り立とうとした途端、
軽い身体が、冷たいタイルに着地した。
シェラはばつが悪いのか何も言わず、ゼフォンも黙ったままそれに付き合っている。
へたり込んでしまった身体を支えて立たせ、そっとタオルにくるんで椅子に座らせる。目線を合わせようとしゃがむと、ぎこちなく下を向いてしまった。
温かな湯のせいでぬるい空気が立ちこめる。
しばらく座っていたゼフォンが立ちあがり、そっと手を差し出す。濡れた金髪がぴくりと動いた。
「立てる?」
横にゆれた。
「水は?」
こくんと頷いた。
取ってきましょう、と一言残し、ゼフォンはできるだけ穏やかな足取りで浴室を出た。
あの怖がりよう。
そんなに震えるコトないでしょうに。何をやらかしたわけでもないのに、全身を硬くして息する様は叱られるのが怖くて怯えている子供だった。そのくせ、瞳に強いものを宿して譲らない。取り上げられたくないモノを守るため、何も話すまいとする頑なさを秘めていているようで。
テーブルに載っていた水差しを手に取り眺める。
一体何を隠しているのか。
二人の間に壁となって立ちはだかる感情の正体を、ゼフォンはいまだ掴めずにいた。
イシュとの間には無かったものだから。
棚からカップを一つ取る。
あの頃あったもの。
気まずさを蹴飛ばす悪戯、一瞬で空気を変える甘い触れ合い、瞳を合わせるだけで伝わる愛しさのサイン、口づけひとつで元通り蘇る笑顔。
たったそれだけの事が、今は難しい。
何が違う。
何が変わってしまった。
たった一滴、水音が床を打つ。
水差しを持って振り返った先に、細い裸体が頼りなげに立っていた。
おぼつかぬ足取りで浴室から出ようと一歩踏み出す身体に一瞬で追いつき支える。
「まだ動かない方がいい」
「もう平気です」
差し伸べた手から逃れようと、シェラは抜け殻になっていた服へ歩き始める。
どうしてそう頑なになる。
昔は言葉などなくても、ただ寄り添うだけで通い合っていたのに。
この壁さえ破れば、元通りになるはずなのに。
いや、
――神の定めし掟がたやすく崩れるわけがない。全ては変わってしまった。
そんな事は、本当はこの数千年でとっくにわかっている。
今は、無駄な悪あがきを続けているだけ。自分が納得できないから。
すべては自分の愚かな執着によるものだ。
イシュが愛おしい。
ただそれだけ。別の存在に感情が動くはずもない。
まさか、こんな頼りない人間が心配になるなんて。
「帰ります。ほっといて下さい」
「その身体で帰すわけにはいきません。放っておけますか」
腕の中で力なくもがく身体に顔を寄せた。
きっと風呂に入れたのも策略のうちだと思っているんだろう。
今日に限って、そんなつもりは無かったのだが。
しかしこうなってしまったからには、自分の責任だ。湯船の熱さも、身体を焦らす熱も取り除いてやらねば。
タオルごと濡れた身体を抱いて、一瞬の隙をつく。
その瞬間、噛みつくように口づけられた耳からシェラの全身に震えが広がった。毒か麻薬のように広がる氷の魔法は、弱い人間の身体から抵抗の意志を奪っていく。
「落ち着いて、力を抜くだけでいい。全て、委ねて」
唇を離さずささやく呪文は心を溶かす甘い罠だ。
ガラス程に繊細な身体を抱きしめ、固まってしまった身体をゆっくりと撫でる。
人間でなければもっと強く抱けるかもしれないと、よぎった考えに暗い思考が頭を埋める。
イシュが戻りさえすれば。
イシュリエルは生きている。形を変えようと、魂だろうと、必ず、会える。
会えばきっと、再会を喜んでくれる。また一緒に居られる。
そう思って1万年の時を耐えた。
自らかけた魔法を溶かすように、氷の中心に輝く光を壊さないようにゆっくりと、上気したシェラの肌をなぞる。
イシュリエルの魂が地上界にあると知ってからは、延々と彼を探しつづけた。その間に、人間達は幾度も死に、光景は変わり、
結局何の準備もないまま、彼の魂と巡り合ってしまった。
そして、イシュリエルは予想通り、自分との記憶も、何もかもを失っていた。
思いだしてくれるだろうか。タイムリミットはすぐそこ。
脆い人間の身体では、いつ次の別れが来てしまうかわからない。
言葉、仕草、歌、身体を重ねるコト、愛すること。イシュリエルと共にした記憶を引っ張り出しては、糸口にならないかと与え続けた。
会って数年と経ちはしないのに、そのうち、灰色の焦りが胸を埋めるようになった。
ただの魂の器である人間を暴いたところで、イシュリエルの魂は取り出せるものではない、記憶は戻らないと、神に与えられた知識が断言する。
自分だってそう結論付けたはずだ。
無為だ。これ以上は意味が無いと。
それどころか、この人間を苛む過去が心を蝕んでいる。
口づけさえ拒む唇は、今も快楽と嫌悪に引き裂かれ声の無い悲鳴を上げている。
抱きかかえベッドに乗せれば、目を瞑って身体を硬くするこの人間にとって、快楽は忌まわしい、意志を奪うもの。ただ一つ彼が持っていた美しい声さえ奪うほどの衝撃を与え、幼い心に刻まれた恐怖そのものかもしれない。
「怖がらなくていい。傷つけないから」
仮にもイシュリエルの魂を宿している器だ。叶うなら、何一つ傷つけたく無かった。それなのに、事あるごとに傷つけてしまうのはなぜなのか。諦めの悪さがつくづく嫌になる。嫌にはなるが、そうでなければとうの昔に自らを焼き殺していただろうな、と思う。
結局、イシュとの別離は、それほど認めがたいものだったということか。
なのに、イシュが願ったように生きられない自分だけが残ってしまって。イシュを無くしたその時のまま、抜け殻だけを見つけてしまって。どうしたらいいのかわからない。これ以上、何をしてやればいいのか。
“dimittite”
やがてシェラの耳に、呟きほどの贖罪が聞こえた。
ふ、と目を開く。
遠くカンテラの灯を受けて、ゼフォンの瞳は苛烈な紺に光っていた。
小さな光源だというのに、黒い星の煌めきが見える不思議な堕天使の瞳。おぼろな闇の中で吐息の距離になる。火照った頭には冷たい指がまとわりついて熱を奪い、
当然のように顎を上向かされ、そして
シェラは、反射的に顔を背けた。
「・・・どうして」
「誰に、言ってるんですか」
かすれた声で問えば、一瞬声を失った後、感情を削り落とした声が降ってくる。
「シェラ、」
呼ばれると同時に、低温の愛撫が腰を溶かす。
よく聞き分ける耳でなければ、勘違いしていられたのに。
お生憎様。僕は馬鹿じゃない。
「いや、触んないで・・・ッ!」
肌が唇が快楽に突き落とされ呼吸の合間に勝手な喘ぎを漏らし、心が音のない悲鳴を上げる。
漸く、呼んでくれた。なのに彼は、その名前を、服従させるために使う。
腿の内側をたどる指先が、敏感なところを通り過ぎる。
「あ・・・っ離して」
「本当に?」
「ばか、悪魔ッ・・・」
至近距離で喉が絞り出す細い声に、ゼフォンは目を細くして笑った。
「どうとでも」
その目の奥に見える哀しげなものに戸惑わされ、シェラはまた唇が触れるのを許した。
ただ触れているだけなのに、快楽と苦しさが熱に溶け頬を伝う。
ああ、もう。どうしてこんなことになってるんだろう。
時折低い声でからかう唇に敏感なところを吸い上げられて。小さな熱が火になる寸前場所を変えるタイミングが、計ったようにぴたりと止まって、すごく、じれったい。
(だめ、このままじゃ)
“Mi perdoni”
こころなしか、故郷の訛りが混じった。
「・・・あなたが、何を謝る必要がありますか」
「昼の」
「もう終わった話でしょう?」
「じゃあどうして、」
どうして、怒ってるんですか。
僕が暴言を吐いたからではなくて?
「あなたは勝手にずぶ濡れになってまで贖罪をしに来て、そして先程入浴という形できちんと代価を渡された。子供たちの為に身体を張って支援を繋いだわけですから、院長先生の責任を見事果たしたわけでしょう?ええ、そこまでした度胸は褒めてあげましょう。とにかく、もとよりそれだけが目的だった、これ以上謝る意味は」
早口の詰問に、思わず肩がすくむ。
「あったんです。謝らなきゃいけない理由が」
「無理に思い出さなくていいんですよ。怖いこと、つらい記憶、全て忘れてしまえば楽になるでしょうに」
「思い出すのは今日のコトで、そんなに昔のでは」
「それでは私と居た時の事も思い出して下さいますか?」
掴まれた腕の痺れが限界を超える。
「ゼフ、痛い」
「ええ、あなたが言ったんでしょう?遠慮しなくていいと」
「だから・・・んんっ!」
また、話を逸らされてしまった。
ぎゅっと瞑っていた目を開いてみれば、口づけの最中だというのに、ゼフォンはシェラを見続けている。睨むように観察する瞳。額を突き合わせる距離、恐ろしいほどに澄明さを増して迫る。
「言っておきます、けど、人間は、生まれる前の記憶は持ってないんです!無茶言わないで!」
「ほぅ?神に愛されたイシュの魂が転生した“あなた”が知らないとは、レテの水の平等さは」
早口に不機嫌に迫ってくる唇を、制止。
僕が今聞きたいのは、そんなことじゃない。
「ゼフォン、怒ってる?」
「あなたに?まさか」
「違います」
「じゃあ何に対してそのような感情を持つと」
「あなた自身に」
虚をつかれたように、ゼフォンの動きがぴたりと止まった。
表情を変えずに、唇が離れ、ただ瞳の色が漆黒へ近づく。
空虚な、からっぽの色だ。
「そう、見えますか」
怒っている?自分に?
どうして?と、探るように唇が形づくった。
時々、何も知らないはずの人間が核心に迫ってくる。
言葉が、深く、感情に切り込んでくる。
1万年の時に比べれば一瞬にして過ぎ去った再会の時、自分の裏切りは許されたはずだった。
あれからずっと許せなかったのは、それでも自分だった。
あんな風に裏切った自分が、ずっと変われない自分が、
イシュが願ったように生きられない自分を責めていた?
怯えと戸惑いを宿した目で、器の人間がこちらを見ていた。うかつに触れれば逃げ出してしまう、高い空の青。イシュリエルと同じ、まっすぐな瞳をしている。
「僕は、」
咄嗟に頬に触れ、上を向かせ、器の唇が抵抗するのを封じ込めた。
“彼”じゃない、そう言おうとしたはず。
イシュでなくてはならない。これ以上は聞けない。
驚いたのか、諦めているのか、押しのける手は弱弱しかった。
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