off stage

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歓声が、聞こえる。
天使の声を褒め称える幾万の手の音、劇場を満たす喝采の渦。
「イシュリエル」
巻き起こすその中心に向かって手を差し伸べる。

嗚呼、彼が今一度その羽根を顕してくれたら
あの時のように、彼を支配する観衆から奪い去ってしまえるというのに。



 夜気が香る。

 欲望に満ちた俗曲を載せていた唇とは思えないほど綺麗な、薄桃色をした口元に触れる。人気の無い裏路地に広げた翼の影の中に飛び込んできた先刻の歌姫は、質素な神父服に薄化粧という、何とも背徳的な格好をしていた。
見る者が見れば、舞台の中央で絹のドレスを纏っていた、今宵の主人公であったとわかるだろうけれど、仏頂面で唇を噛んでいては判るまい。

「ゼフォン、早く、逃げますよ」
「報酬は?」
「座長経由で後日」
それだけ確認してから、華奢な身体を引き寄せて狭い道を走る。時折、後ろに誰も追いかけてこない事を目線で調べて、行く手に人影があれば道を変える。
 歌い手の熱狂的な"追っかけ"集団から逃れるための逃避行が、劇の中の一場面と重なって思い出される。
 戦火の中で恋に落ち、身体ごと堕ちていく若い男女の役を、今は己の腕中で荒く息を弾ませる、脆い人間の身体が歌い上げた。その声も容姿も、劇場に居た全ての人間にしっかりと印象付けられたことだろう。

 もちろん、相手役の男だとてそれなりの声と容姿をしていた。だがそれだけだ。演じていた二人の主人公役のうち、どちらが舞台をリードしていたかなど、明々白々であったに違いない。
 そう、それで。どんな噺だったか。
 若い二人が、田舎町で恋をして。
互いの気持ちを、外れにある丘の上で歌いあうデュエット。
 すれ違う感情を、堕ちながら女が叫ぶエレジー。
 二人の故郷を襲う戦火の中を、共に逃げ惑いながら 掛け合いのように交互に呼び合う互いの名前。
 幾度も呼んで、呼ばれて、探し求める恋人達。

 炎に捲かれ命を失う瞬間に告げる言葉。
「忘れないで」と歌いきった最期が眼に焼きついて離れない。
 そして目の前に、炎の描かれた舞台から戻ってきた天使がいる。生きて、自分の腕に抱かれている。
 頭の中で、現実と、舞台に乗せられた虚構が交ざる。
 優雅に舞台の上の恋をリードし、華々しく、堕ちた恋を演じた天使が、けれど自分の前では頑なにその心を閉ざす。
「忘れないで」と言っていたのに。


立ち止まって強く腕を引く。
怪訝そうな薄藍の瞳を覗き込み囁く。
「忘れてしまったのは、貴方のほうでしょう」
「何をいって」
 何かが悔しくてならない。
 心の底辺にいつもわだかまる闇が、揺れる。
奪いたい。奪いつくしたくなる。
 抵抗する腕を冷えた石壁に縫いとめ、深く唇を冒す。長く封じられて乱れた吐息に甘い匂いが混じっているような気さえしてくる、愛しい人の口腔の味を楽しんで身体を離した。
 薄い月明かりに晒されて強い意志をはらむ二つの瞳、おそれもせずに、まっすぐにぶつけてくる空色を、漆黒の瞳で迎える。
「悪いお酒でも飲みましたか?」
 険のある口調で睨まれても、極上の美酒に酔ったかのごとき蕩けた表情が隠し切れないでいる、その様に微かな欲情を見て満足する。上気した頬の赤さは走ったためだけではないだろう。
「イシュリエル。戻ってきてくれたというのに」
つれないにも程があるというものだ。
漸く、自分のもとへ、あるべき場所へ辿り着いたのだから、もう少し応じてほしいところなのだが。

「舞台は終わったんです。娯楽も、歌姫も、もう居ない」
「それでも、覚えているのでしょう?」

何を、と聞くことは無い。ただ、警戒と怯えの漂う顔を間近にして問いただす。
一縷の虚しい希望を、現実と舞台との間に織り交ぜながら。


「知らない。私は、"彼"なんて知らない」

いつか、頑なな魂が覚醒するその時が、待ち遠しい。



fin

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