-Baked cake?-
厚くかけた布地をめくると、ブリキの箱に白い塊が丁度焼く前のパウンドケーキのよろしく入っていた。
「これ、ですか」
「何かわかります?」
「何、でしょう。舐めてみていいですか?」
ケーキの生地が膨らまないのかと心配する顔で指を出すシェラに、思わずのタイミングでゼフォンの忠告が飛んだ。
「それはやめたほうが」
「え?」
「いえ、お菓子ではありませんから。美味しくは、ない・・・かと思、くっ・・・いや、失礼」
あわてて止めるから何事かと見れば、時折噴き出す様に笑いをこらえている。
視線を合わせないよう顔を背けるので、相当ツボにはまっているらしい。
「何が可笑しいんです。全ッ然わかんないんで、もったいつけないでご教授願えませんか!?」
「ええ、それはただの不味い石鹸ですよ。あ、ちなみに本日のおやつはもう出来ていますので、ご心配なく」
こつりと爪を落とせば確かに硬く、独特の曇った音がする。
「石鹸って、あの、身体を洗うための?」
「それ以外の石鹸を知っているのなら、寧ろそちらを教えていただきたいものですね」
再び思い出し笑いを始める気配に、咄嗟にくぎを刺す。
「ええそうですね。石鹸といえばこれです」
内心で(この堕天使!知ってるからって何ですか!頭でっかち!)と叫びながら本人ではなく石鹸の方を睨みつけた。
そういえば、あまり思い出したくもないけれど、仕事の後や前の沐浴・・・一度だけ最中にも使われた気がする。“あの時”はまともな使い方をされなかったけれど。
「舐めるのはおすすめしませんが、手に取る分には構いませんよ」
そういって一つ型から取り出してくれた石鹸の塊を、両手に持って四方から眺める。
長方形のブリキ型は、もともと何が入っていたのか底に3本縦線が並んで、水切れが良さそうな形になっていた。
「この時代であればそんなものでしょう」
「設備もなくて簡単に作れてしまうんですね」
「まださほど普及していないかもしれませんが、わりと安くできますよ」
「昔使ったのより、随分と良い香りが・・・?」
手の中からふわりと匂い立つ、穏やかな香りが心地よい。
「流石は感受性豊かな歌い手。気づいていただけましたか」
悪戯な笑みで隠し得意げな本心をちらつかせ、堕天使は自慢の石鹸に入れた材料を取り出す。麻袋から出てきたのは香水だろうか、ガラス瓶に黄色っぽい液体が揺れている。
次いで長い指に掴まれ出てきたのは、ゼフォンの家に大量に吊るされたハーブの一つだった。乾燥、退色した花は実りをもたらす前の麦にも似た形、そして僅かに青い色を残している。
「ラベンダーの芳香油を入れたんですよ。リラックス、鎮痛効果など効力があるのでバスタイムに宜しいかと」
ああ、これなら年頃のお嬢さんも使ってくれそうだ、と頷きかけてゼフォンの一言に目を見張った。
「芳香油・・・!?そんな高いもの一体どこから、」
庶民にとって純粋な油などほとんど手に入らないご時世に、香り高い良品ならばなおのこと。
「幸いなことに時間ばかり無駄にあるものですから。全て、ハンドメイドです」
メイド・バイ・ゼフォンの芳香油。
ラベルを張るなら黒い翼だろうか。
というか、彼はこんなものを一体いつから作っていたんだろう。
「・・・ほんと、暇だったんですね」
「今はわりと退屈しないで済んでいますよ。貴方のおかげで、ね。
さてこの石鹸、教会で売ってみませんか?」
「寄付のお礼にではなく?」
「孤児院でチャリティーマーケットを開くことぐらい、誰も文句は言いませんよ」
いくら金銭にうるさい本部がバチカンに控えているとは言え、片田舎のボロ教会にまでは文句は言ってこない。
「どうです?子供たちの分も一緒に作ってしまえば一石二鳥でしょう」
材料費もきっちり儲けようとするあたり・・・この堕天使、経済観念がしっかりしているというか、実に抜け目ないというか。そんな一面に呆れもするけれど、おかげ様で助かっている事も多い。
「わかりました。明日市場で買ってきますから材料を」
先手を打つつもりで早口に告げた言葉を、優雅なテンポで止められ、
「おや、それぐらいこちらで「いいえ私が行きます」・・・そうですか」
さらに早口になってきっぱり言い放つと、とても残念そうな表情をされた。
彼とは、ついこの前も一緒に市場に行った。
数日前につけられた薔薇色の痕跡を思い出す。
――あんなに人がいるところで、どさくさまぎれにあんなコトするなんて!!
頬が熱いのをこらえて言い放つ。
「絶ッ対ついてこないで下さいね!」
タダほど高いものは無いんだから。
そんなわけで、数日後。キッチンには二人の男が立つことになった。
鍋の中には、くつくつと煮え立つ不思議な香りの液体。
かき混ぜたり、水や香油を加えたり、火加減を調節したり、丁寧な説明をはさみながら、石鹸作りは着々と進んでいた。
早めのおやつを取った後に始め、数時間とかけずにすんなりと進んだのは、ひとえにゼフォンが居たからだろう。さっさとこなしているように見えて、彼はなかなか面倒見がいい。
「色々教えてくれるんですね」
作業着にと着せられた袖で汗をぬぐう。
「元天使ですから。そこそこの知識は持っているものですよ」
「誉めてる訳じゃないんですけど」
「おや、そうなんですか?残念ですね」
「残念くらいで丁度いいです」
「まぁその残念な堕天使が、誰かに自慢したくて知識を広めてしまった。その結果、人間の文化が発達したわけですが」
「・・・それは、あなたの言い分です」
承服しかねるといった顔で神父が返せば、聖書よりも長い時を生きてきたゼフォンが心外そうにぼやく
「神様や天使が全て与えてくれたわけではないでしょうに」
例えば、と指先に小さな炎を顕す。
「今こうして使っている火、これがなくては人間は食事すらできない。
ギリシャの炎にまつわるストーリー、ご存知ですね?プロメテウスの“物語”。ところが神話の中には時折、えてして重大な事実が隠れているものです。この場合は、エデンを出た人間に火を与えたのは神ではない、ということ。あの話も結構歪みましたねぇ」
(ほらまた、見てきたように言う)
言葉を続けながら、彼は人外の力を軽々しく弄ぶ。
同輩に経験談を語るように滔々と語る。
「・・・と、話を戻しましょう。
人間が炎を知ったのはつまり、先に地上にいた者が協力したからこそ。
そう考えれば、炎を天界から盗んだ“裏切り者”呼ばわりは止めようとか、普通思いませんかねぇ」
「普通に思うわけないでしょう!?僕、神父なんですよ?」
「おや、本当に?」
「な、何を疑ってるんです」
「・・・いえ?本心からそう仰っているようには、とても見えないものですから」
わざわざ目線が合うように身をかがめ、今更な厭味を申告してくる態度が癇に障る。
「では証してみせましょう。僕が上辺だけでない信仰、考えを持っていること。
いいですか?神様の庇護があったエデンから人間が離れなければならなかったのは、悪魔の手先である蛇がそそのかしたから。そして人は誘惑に負けた」
そして神を“裏切った”悪魔によってもたらされた『原罪』の故に、人は苦難の道を歩むことになったと、聖なる書物は悪魔と人の罪を示す。
大切なのは、物のやり取りがあったことではない。
神が禁じられた実に、人間が約束を破り手を出したことだ。
「人間と神との歴史における、最初の裏切りです。
でも、神様は人間にチャンスを与えてくださいました」
「そして人間は2度と裏切らないために、原罪を背負い生まれてくるんです。今度こそ神様に正しく導いていただくために」
徐々に赤い背丈を削られていく温度計を見詰め、ゼフォンが静かな口調で呟いた。
「2度目の、チャンス」
虚ろな独白めいた響きに気付かず、シェラは一つ頷いて思考をつなげた。
「でもユダは、裏切った。
そしてそれに飽き足らず、見返りを手にしました」
神の子キリストを売って銀貨30枚を手に入れ、最終的には自分の犯した罪を悔んで自殺する。神様が与えて下さった命を自ら捨てるという、最悪の死。
新訳聖書における有名な部分だ。
シェラが教会の聖歌隊に入ったばかりの頃、教会の大判の聖書にグロテスクな版画と共に載っていた。幼心に、首を括ったユダの魂を死神が回収する絵が強烈で、ユダの行く末を案じるイエスの悲しみが心に刺さって。このような悪魔の誘惑には絶対乗るまいと誓った事を思い出す。
そう、たとえ楽しいばかりの一生を与えられようと、死の淵に立たされようと。
かつての思いは、今も変わらない。
だから僕は僕でいるため、出来ることをする。
「ユダは心に巣食う悪魔に負けましたけれど、
僕は、僕であることを、投げ出したりしません。神様に誓って」
決然と言い放ち、自分自身に確認する。
「こんなに長い間付きまとっていただけるなんて、思ってもみませんでした。でも、今のお説教であなたが悔い改めて下されば、あなたの顔を見るのも今日で最後になるかもしれませんね」
凛として見上げた傍らの堕天使に、いつもの余裕ぶった笑みはない。わずかに乾いた笑いを口にするだけだ。
「これはまた、今日は一段と威勢が宜しいようですね神父様。
先週ベッドの上で散々声を嗄らしたのがようやく治ったようで、安心しました」
「あれは・・・っ!僕がそうしてくれと頼んだ事が、一度だってありますか?」
「本当の望みを汲んだまでですよ」
「あなたが無理矢理してきたんでしょう!?僕の望みじゃない、あなたの、あなた達の“与え方”は歪んでいるんです」
滑らかな生地にふつりと沸いた小さな泡のように思わず口に出せば、どこか昏い感情がわき出してくる。
「それに、どうせ今回も盛大なお返しを期待しているんでしょう?」
問いかけに視線を合わせれば、言葉を弄して人を罠に陥れる悪魔の瞳がちらと動いた気がして。
「・・・では少々お聞きしますが。蛇は人間に見返りを求めた、と?」
「いえ、聖書には」
「プロメテウスは人間に供物を差し出せと言いましたかね?」
「神話は事実じゃない」
「ユダは本当に銀貨を喜んだ?」
「裏切りを悔いたから手放したんですッ!」
ブレスの間も無い詰問に反抗し、脳裏に閃いた言葉が次々とキッチンに飛び散る。
「まったく・・・いきなり」
何なんですか、と続けようとした言葉は唇に置かれた指にさえぎられ行き場を失った。
静かに頬へと移動する手は温度など無くて、ベッドの上で唇を奪う時のように近々と吐息を触れ合わせ、真っ直ぐに視線が侵入する。
ちがう。
ゼフォンは今、僕じゃない誰かを見てる。
自分じゃない。ゼフォンの目に映るこれは“彼”だ。
瞳も気持ちも、全てが“彼”に向けられている。
“彼”にだけ、語りかけるために。
僕なんて初めから居ないみたいに。
怖い。身体が震える。
黒い瞳、細長い瞳孔が恐ろしく澄んで、怒りの色をしてシェラを捉える。
向き直った彼の黒い瞳に映る自分がひどく小さい。
けれどどうして、目が逸らせない?
ひょっとして、魅せられている?
(そんな、冗談じゃない)
押さえきれない気迫に、人間の脆い体が身じろぎ、
一方で、顎を噛み砕くほど力を込めた歯がぎりりと音を出した。
「あなたは、裏切り者の感情など知らない」
「・・・っ」
透徹した目に、咄嗟に言い返せなかった。
「虚ろな絶望に堕ちる日々を、知らない」
「絶望など、あの時に」
「それでもあなたは美しく清らかなまま。変わっていない」
「そんな、コト」
「何故かおわかりになりますか?」
今しがたユダの死に様を見てきたような声音で語る堕天使に、息の根さえ止められそうな錯覚を覚える。
「簡単な話でしょう、清らかな魂が宿っているからですよ」
「ちがう、」
手首をただ掴まれるコトはこんなに恐ろしかったろうか。
「私には一目でわかったというのに。魂の輝きは少しも変わっていない」
「あれは、神様が」
弱くかぶりを振った身体に指先がかかる。
酷薄な笑みを添え、とどめの一言が心を串刺しにする。
「ではあの時、神があなたに何をしてくれたと?」
あの時?それはいつ?
「あなたを利用し弄び、悪夢に突き落とした神を信じる?
また言いなりになるつもりですか?」
弄んだ?また?何を言ってるの、このひと。
かすれた声で足掻く神父の横、火から遠ざけられた鍋が音もなく冷えていき、
「・・・・・・僕は」
気づけば、身体から声が消えていた。
苦しい呼吸を受け止めるようにゼフォンの腕が痩身を抱き寄せ、そっと耳元に囁く。
「知りたくはありませんか?」
従順というよりは虚ろ、というべき表情が微かに反応する。
自分の中にある全てが偽物で、騙されて生きているとしたら?
本当は知るべきことを、何も知らずにいるとしたら?
「本当の姿を」
僕は僕じゃなくて、本当は“彼”?
それじゃあ僕は、何のためにいるの?
まるで人形の問いだ。
捨てられるとわかっている、身代わりの人形。
だけど。
一瞬無音になった世界へいくつものコードがどっと押し寄せ耳元で不協和音を奏でる。いっとき声を失った、唇を噛む。
そんなこと、僕は認めない。僕は、僕でなきゃならない。子供たちのためにも。
耳元に吹き込まれた言葉から逃れるように言葉を捻り出す。
握った手を硬いゼフォンの胸に叩きつける。
「・・・っこの」
「悪魔?裏切り者?どちらでも好きにお言いなさい。結構。堕天使となってあなたを裏切った私に大層似合いの言葉ではありませんか」
そういって何かを期待するように、なおも奥を探る悪魔の黒い瞳。
怖いはずのそれが胸を掻き回すのは、一体どういう理由なんだろう。歪んだ視界が大粒のしずくを光らせ頬と指先とを濡らしていく。
僕にはわからないのに。
涙線が決壊するかと思ったその時だった。
だまって大人しくしていた男が、完全に阿呆なタイミングでくすりと笑う。
「やはり泣かせてしまいましたか。相変わらず弱くて可愛らしい」
「・・・・・・!!」
馬鹿にしてる。
結局、“彼”のことばっかりで。
利用してるのは、ゼフォンの方だ。
潤む瞳が床の輪郭を取り戻す。
ぐいと上を向いた人間の神父の、意志を宿した瞳。力を込め睨みつけた眼に、驚きのうかぶゼフォンの顔が映る。
ええ、こんなやつ、一言で十分ですよ。
「Go to hell!!」
そう言い捨て、シェラは靴音を響かせてキッチンから出ていった。
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