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「いつも出してくる楽譜は、どこから」
その疑問に答えるため、彼は昨夜、一つの鍵を手にした。
「そこにあるものは全て、随分前からあなたの物ですから。差し上げましょう」
いつ、とは言わずに"随分前"と言った。ならばきっと、"彼"のもの。
しばらく一人で見ていたいという望みを受けて、ゼフォンはあっさりと部屋を出ていった。
手前の楽譜は最近書かれたものらしく、紙もインクも鮮やかな色が美しい。
そこにはシェラが最近目にしたものもあった。
ほんの少しだが置いてあるそれらはまさに
氷山の一角、という言葉がしっくりくる。
壮絶なまでの楽譜を収納した場所だった。
部屋と同じくらいの楽譜庫の中を、ゆっくりと歩む
ゼフォンが自作曲や俗曲や、普通の歌曲ばかり歌わせるのは
決して、
それが好みだからではない
彼は聖歌だけは絶対に歌わせなかった。
時折眉をしかめている音律を見ると、聖歌とよく似ていることもあった
それはおそらく、堕天使としての性が拒むからなのだろう
でも、"彼"の曲があるとしたら?
ゼフォンはそれすら拒絶してしまうだろうか
その曲は、ゼフォンの中の何かを変えはしないだろうか
たくさんの疑問と希望をかかえて、宝探しのような気分で奥へと進む
手がかりは、家の中にちゃんとあった
部屋にあった鍵の位置と向き、伏せられたグラスの数、
適当に並べられただけに見える鏡、そして絵。
幾つかを結んだ複雑なラインと意味を、シェラはゆっくりと思い出していた。
数字によって位置を示す、古典的手法。
彼が考えたのだろうか
だとしたら風雅な趣味もあったものだ
梯子に乗って、上から二段目の楽譜を半分取り除いた空間、
そこに、異様に古い楽譜が、ちらりと見える
「・・・・・・やっぱり」
目当てのものは壁に埋まるようにして収まっていた
「昔から、かくれんぼの鬼は得意だったんです、よっと」
ひとかたまりだけ、紙のもろさを意識して抜き取った
そのときだった。
「―――あ」
目の前の楽譜を基点に、棚一つ分の楽譜が雪崩れる
悲鳴を上げるまもなく梯子から落下
楽譜に埋もれて死ぬ、それならいいか、と一瞬思った
けれど、
良いわけがない
紙が降り注ぐ音の中、掴み取った楽譜を抱きしめる。
まだこれを、彼に歌っていない
"ANGEL of Ithriel"
イシュリエルの残した、聖歌
"彼"が書いてくれた歌なのに
あなたは、心ごと耳を閉じてしまうだなんて。
それなのに、今もイシュリエルばかり見ている。
目の前にいる私の存在さえ忘れて。
ならばこの詩は、ちょっとしたお仕置き
ゼフォン、あなたが受けるべき罰だ
こんなに早く、歌いたくはなかったけれど
やがて、あの日から幾度となく口にした音が、ゆるく唇を裂く。
幸せと、恐怖がないまぜになった、悲鳴のような曲調
歌詞はほとんど無くて、
完璧な音律に、ただ
「貴方は 私を置いていく
永久に 残るのは 私の」
それだけ。
きっと幸福の最中に発された、
たった一つの不安、それだけが時折浮かぶ
哀切を並べて重ねて、揺らぐ
心なしか、手のひらに微かに伝わる震えが大きくなった
"彼"の言葉を繰り返すたび、目に見えて蝕まれていく
「イシュリエル」
目を閉ざし、その身を縛るように両腕で抱いて、
「イシュ」
肌を破る爪も、うずくまる身体も、
「何故、イシュリエル」
すべては閉ざされることなくゼフォンを苛んだ。
床に崩れ落ちることは、自分の手がさせなかった。
「どうして、」
ちらりと見えた、乱れた黒髪から覗く瞳は、悲痛に染まって。謝罪はもちろん、制止さえできないないほどの苦しみの中で、それでも、痛みを受け続ける彼の口から“彼”を、僕を、責める言葉が出ることは無かった。
身体中を襲う痛みが、彼の心まで壊しているのだろうか
それは、自分と同じ痛みだろうか
そこに、自分はいるのだろうか
このひりつく喉と同じだけの不安を
ゼフォンは、感じてくれるだろうか
眦から、水滴が落ちる。
問いただす。
悲しいのは、誰、と。
同じ姿勢で歌い続けて、
どれほどそうしていただろう
ふっ、と
上下する肩を抱き支える格好のまま、
零した涙がすくい取られるのがわかった
「・・・・・・・・・ゼフォン?」
歌が止んでも、彼は顔を上げなかった
かわりに、震える指先がシェラの流した涙をたどる
「これに懲りたのなら、約束を。
もう、子供たちには手を出さないでください」
たぶん、承諾のつもりなのだろう
もう一度、涙をぬぐう指が触れる
「それだけ判ってほしくて。・・・それだけです」
溜めていた重い息を手放す。
力を抜いた身体が、ベッドに向かって引っ張られる。
何気なく見た背中に、切迫した様子はない。
怖くて眠れない子供が、添い寝をせがむように身を寄せる。
連れ込む相手が恐怖の元凶であるあたり、悲しいといえなくもないけれど。
されるままになって狭い部屋を渡ると、抱き寄せていた冷たい手が離れていく。
珍しく、一人でベッドに倒れこむのが見えた。
靴を脱いで傍らに座って、
二人分の重みに軋んだベッドの上で、ゼフォンを眺めた。
こんな姿になった彼を見るのは初めてだった。
あの歌で、よほど消耗したのだろう
一応、お仕置きという名目にしたけれど、むしろ罪悪感でいっぱいになっているのは自分の方だ。
酷く傷つけたのは、僕だから。
「・・・痛い?」
「全身を内側から針で刺しても、こうはならないでしょうね」
全身でイシュリエルを覚えているからなのだろうか。
ゼフォンがこれほどに求める"彼"が、自分だと聞かされてからも
嫌なことに、薄くない嫉妬はおさまる気配が無かった。
そう、だから、
自分は"彼"じゃない
「一回聞けば十分です」
いつもの調子が戻ってきた口調につられて、ついつい声を硬くする
「そうですか?こういうメロディー、あなたが好きだろうと思ったのですけれど」
「冗談にしては笑えませんが」
小さく肩をすくめて返事に変えると、
あやすように頭をなでてやりながら、"彼"が遺した美しいメロディーだけをたどる。
半身を起こして振り返った顔に、何かを堪えるような色が見えた。
それでも、今は軽い頭痛程度なのだろう。
先ほどよりは落ち着いた動きで、ゼフォンの指が歌を紡ぎ続けている唇に触れた。
歌を止めるつもりは全くなかったから、両手でそっと除けて続ける。
一瞬だけ不機嫌な表情をして、彼は片手を封じられたまま
口元に器用な口付けを落としに来た。
しだいに下へとおりていく唇を止めないのは
罪悪感のせいだと考えて、躊躇う。
それ以外は認めたくないのに
嫌なのに。
ふと、伏せた目に映る黒い色
いつの間にやらボタンの外された神父服
そして、
自分の指に絡む、綺麗な黒髪
認めてはいけないのに。
言うべき言葉が、散りかけた意識に浮かぶ
手放そうとしても、
それだけは鮮明に。
けれど、
誰に言えば、楽になれるのか、わからない。
"ごめんなさい"と。
END
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